中国では、長い分裂の時代を経て、隋が南北を統一しました。それまで周辺の諸国は、中国の南北対立の状況を利用した外交を進め、それぞれの生き延びる道を模索していましたが、ひとつの中国と向き合い対峙する形勢になりました。高句麗・百済・新羅は、隋・唐や日本を巻き込んだかたちの改編が進み、新羅が半島なかばを領有するようになります。その過程と結果をみていきたいと思います。すでに隋代を経て、唐代にはいっています。今期は、7世紀なかばの、百済・高句麗滅亡後の諸問題について述べたいと思います。 安東都護府と小高句麗国 10/23 高句麗滅亡のあと、唐は高句麗王都に安東都護府を設置して、旧高句麗領の多くを統治しようとしますが、高句麗遺民は復興運動を始めます。その過程で、あちこちに高句麗国を建てます。それを小高句麗国と呼んでいます。益山の場合、その後一時期、報徳国と呼ばれました。(写真 報徳国説のある五金山城) 新羅の三国統一と四天王寺 11/27 新羅は唐と結ぶことによって百済・高句麗を滅ぼしたのでしたが、高句麗滅亡後には遺民の復興運動に加担し、唐と対立するようになります。その際に仏力で唐軍をおさえようとして四天王寺を創建します。双塔式の伽藍で、これ以後の新羅寺院は基本的に双塔式になります。(写真 四天王寺址幢竿支柱) 百済・高句麗遺民の渡倭と百済郡・高麗郡 12/25 百済・高句麗の滅亡によって、多くの百済人・高句麗人が倭に逃げていきます。そして倭国において百済郡が、また山城には高句麗人が住み、少し遅れて東国に高麗郡が設置され、百済人・高句麗人が集住するようになります。(写真 埼玉県の高麗神社)
田中 俊明:滋賀県立大学名誉教授 1952年生。京都大学文学部卒業、同大学大学院文学研究科博士課程認定修了。堺女子短期大学講師・助教授を経て、滋賀県立大学助教授・教授。2019年3月退職。『大加耶連盟の興亡と「任那」』吉川弘文館、『古代の日本と加耶』山川出版社、『韓国の古代遺跡1・2』『高句麗の歴史と遺跡』(ともに東潮との共著)中央公論社。
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