204年頃、遼東太守公孫康によって分置された帯方郡は、公孫淵の滅亡(238)とともに魏の版図に組み込まれ、『三国志』魏書東夷伝によれば女王卑弥呼の遣使も帯方郡を経由して魏朝に到達し、詔書や印綬・銅鏡などの賜与が行われました。さらに265年の西晋成立以降はその支配下に入り、313年の楽浪郡滅亡の翌年頃、高句麗や韓・濊族の攻勢の中で滅ぼされます。 北朝鮮の黄海道鳳山郡沙里院面にある智塔里土城は旧帯方郡治址と推定され,瓦や塼,銭などの遺物が発見され、1912年に付近の方墳(一辺約30m、高約5.4m)から「帯方太守,張撫夷塼」銘のある塼室墓がみつかり、帯方県の位置がほぼ確定しました。これによって帯方郡は,大同江以南,載寧江両岸地域に所在したと推定されます。『晋書』地理志には帯方,列口,南新,長岑,提奚,含資,海冥の7県が見えますが,帯方を除く6県の所在地は不明です。なお帯方郡太守張撫夷は、邪馬台国の外交顧問でもあった張政が、倭人慰撫の功績で改名した同一人物とする説もあります。魏と韓との関係については、伝尚州出土“魏率善韓伯長”銅印が注目され、魏の部従事の呉林が辰韓の八国を楽浪郡に分割しようとしましたが、韓社会の抵抗に遭い、この戦いで帯方太守弓遵が戦死する事件が起こっています(『魏志』韓伝)。これらの研究成果や関連資料を紹介します。
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