『明暗』時代の漢詩は、大正五年八月十四日夜から始められました。五月半ばに起稿された小説の輪郭が定まったころです。漱石は午前中、小説を執筆し、「午後の日課として」漢詩を作ったと述べています(芥川等への手紙)。理由は、我執に囚われた人間関係を小説に書いていると「大いに俗了された心持」になるからと記しています。したがって詠まれた漢詩は、俗世を超越した清閑な自然美と禅的興趣に満ちています。五十年の人生を回顧しての深い死生観も認められます。昨今の混迷を深める現況にとっても、一種の光芒になり得る世界観といえましょう。小説との関わりを勘案しながら、「則天去私」をめざす漱石の漢詩の世界を訪れて、清新な光芒を見つけたいと思います。 <2025年4月期> 今季の漢詩は、漱石の亡くなる二十日前、十一月二十日までの約百日間に詠まれた七十五首です。その大半は、七言律詩です。律詩は絶句とともに近体詩に属しますが、古詩に比べて平仄など規則が厳しく、中でも七律は気力体力が最も要求される詩形です。衰弱してゆく身に抗うように死の直前まで作り続けた作品群ですが、律詩としての技術的完成度の高さは瞠目に値します。斯様に緊張感溢れる作品のみならず、漱石が憧れた常春の優美な理想郷も描出されていて、さすが小説家というべき虚構性が面目躍如の作も少なくありません。漢詩としての技術的、および内容的両側面を基礎知識解説も含めて丁寧に考察しながら、その魅力を存分に味わう所存です。(講師・記) 第1回:4月8日(火) 第2回:5月13日(火) 第3回:6月10日(火)
黒田 眞美子:東京大学大学院博士課程修了。元法政大学教授。博士(文学)。専門は、中国六朝唐代文学。主な論著:『韋應物詩論』(汲古書院)、「夏目漱石の中国文学受容」(『日本文學誌要』第95・96号)、「夏目漱石の漢詩」(『法政大学文学部紀要』第81〜89号)、共編『中国日本<漢>文化大事典』(明治書院)、共編『中国古典小説選』全12巻(明治書院)、訳注『聊齋志異』(光文社古典新訳文庫)。