高句麗は朝鮮三国のなかで、もっとも早期的に国家を形成させ、東北アジアの大国となりました。特に427年に平壌に遷都して、朝鮮半島の国として、後進の百済・新羅を圧迫します。ずっと強く敵対していた百済と642年に同盟を結び、唐と結んだ新羅によって滅ぼされます。6世紀後半以後は日本とも通交関係がありました。この大国高句麗について少していねいにみていきたいと思います。 【予定カリキュラム】 決定版高句麗史(32)高句麗長安城の都市区画 4月3日 高句麗は五五二年に長安城を造営し、五八六年に遷都する。長安城とは現在の平壌市街地に造られた、中国的都城であり、羅城に囲まれ、坊里制が施行されている。ただし平壌は朝鮮戦争などで破壊され、遺構があまり残っていない。長安城の様相と、現状についてみていきたい。 決定版高句麗史(33)日本への通交 4月17日 高句麗は五七〇年にはじめて日本に使者を送る。その時は越の海岸に漂着する。その後も五七三年・五七四年とつづけて使者が送られるが、そのあとは推古期まで中断する。そうした日本通交にいたる経緯や航路について詳細をみていく。 決定版高句麗史(34)高句麗と北斉・北周 5月1日 北中国において、北魏が分裂して東魏・西魏となるが、それを継承したのが北斉・北周である。高句麗は北魏と頻繁の交渉があったが、分裂後は、陸続きの東魏・北斉と関係をつづけ、北周が北斉を滅ぼしたあと、北周との関係もみられる。この時期の高句麗の北中国との関係についてみていく。 決定版高句麗史(35)高句麗と柔然・突厥 5月29日 五・六世紀に北アジアにおいて勢力を持ったのが柔然であった。 決定版高句麗史(36)高句麗の鳥羽冠 6月5日 高句麗壁画古墳は百基を越えているが、四・五世紀の古墳は生活図が主で、人の頭に鳥の羽を二本挿したものが多くみられる。それを鳥羽冠と呼んでいる。そのような高句麗の特徴的な習俗について、壁画の実例をもとに整理したい。 決定版高句麗史(37)高句麗の四神図 6月19日 高句麗壁画の題材は、後期になると生活図から玄武・青龍・朱雀・白虎の四神図に代わる。中国でもそのような四神は後漢代から知られているが、高句麗の壁画古墳としては六・七世紀にみられる特徴である。そうした四神図は何を意味するのか、その実例を示しながら考えたい。
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