中国では、長い分裂の時代を経て、589年に隋が南北を統一しました。それまで周辺の諸国は、中国の南北対立の状況を利用した外交を進め、それぞれの生き延びる道を模索していましたが、ひとつの中国と向き合い、対峙する形勢になります。そこから起きる東アジアの大変動について考えます。朝鮮三国の高句麗・百済・新羅は、隋・唐や日本を巻き込んだ形での改編が進み、新羅が半島をなかば領有するようになります。その過程と結果を具体的にみていくシリーズの第6回は、 百済の王都と政治体制についてお話しします。百済は、538年に都を現在の扶余に遷していましたが、7世紀に入ると、益山にも副都を置きます。王都は5部に分け、部ごとに5つの巷(こう)を置きました。巷は中国南朝の建康にみられる制度で、その影響です。地方は5つの方(ほう)に分けて、中央集権の統治体制を取りました。この時期の百済の王都と政治制度について考えます。
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