高句麗は朝鮮三国のなかで、もっとも早期的に国家を形成させ、東北アジアの大国となりました。特に427年に平壌に遷都して、朝鮮半島の国として、後進の百済・新羅を圧迫します。ずっと強く敵対していた百済と642年に同盟を結び、唐と結んだ新羅によって滅ぼされます。6世紀後半以後は日本とも通交関係がありました。この大国高句麗について少していねいにみていきたいと思います。 【予定カリキュラム】 決定版高句麗史(27)宋・南斉との通交 1月16日 高句麗は、陸続きの北魏に対しての通交のみならず、海路、揚子江流域の建康(南京)に都した東晋から、宋・南斉とも外交関係を結んだ。宋・南斉としても、北魏と対抗していく上で、高句麗との関係は不可欠であり、東北アジアにおいてはひときわ高い地位で処遇した。 決定版高句麗史(28)百済王都漢城攻略 2月6日 5世紀は高句麗の南下の時代であり、平壌遷都につづいて、475年には漢城百済を滅ぼすに至る。故国原王を殺されたうらみは、このとき、百済の蓋鹵王を殺すことではらした。領域的にも、漢城のやや南まで大きく広げることになった。 決定版高句麗史(29)韓国のなかの高句麗遺跡 2月20日 漢城に入った高句麗は、百済の王城夢村土城などを利用し、痕跡を残した。臨津江の附近には、堡塁とよばれる防禦城をいくつも造営している。新羅の壁画古墳として知られる順興壁画古墳や於宿墓も、高句麗の影響を考えなければならない。 決定版高句麗史(30)高句麗年号と造像銘 3月6日 百済には独自な年号がみられないが、高句麗と新羅は独自な年号をもっていた。広開土王碑にみえる「永楽」がそのひとつであり、ほかに「永康」「建興」「延寿」などが知られる。金銅仏の光背に銘のあるものがあり、そこにも年号が用いられている。 決定版高句麗史(31)長安城への遷都 3月20日 高句麗は、552年に平壌地域において新たな計画的都市を造り始め、586年に遷都する。それが最後の都となった長安城であり、現在の平壌市街地にあたる。そうした遷都の背景や目的について考える。
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