宮沢賢治は、自分の詩を「詩」ではなく「心象スケッチ」と呼びました。「心象」を「心に浮かび上がってくること」とし、それを素直に表現したものが「スケッチ」と考えれば、「素朴な抒情詩」を指すように思えますが、そうではありません。賢治にとって、自己の外部にあるものも「心象」だったからです。晩年に書かれた250篇を超える「文語詩」でも事情は同じです。「近代詩」の枠に収まらない賢治の詩を読み解き、その特異な人間観・世界観に迫ります。 @10月10日(木) 「心象スケッチ」とは何か ― 宮沢賢治の〈心象〉の特異性 A11月14日(木) 宮沢賢治における〈芸術と実行〉 ― 「春と修羅」第2集、第3集をめぐって B12月12日(木) なぜ、「文語詩」を書いたのか ― 賢治にとって〈表現〉とは何か?
詳しく見る『枕草子』は、平安時代中頃(西暦1000年頃)に清少納言によって書かれた日本最初の随筆です。清少納言は、一条天皇の后・定子に仕えた女房でした。『枕草子』には、定子を中心とした宮中の華やかな生活、自然と共にあった貴族達の四季折々の行事、権力争いの中で不遇な身の上となってしまう定子との、友情ともいえるような主従関係などが描かれています。また、清少納言ならではの美意識、現代の私達も共感できる人間(男女)関係の機微など、興味深い章段ばかりです。 現代語訳の付いた初心者向けのテキストを用い、王朝文学や貴族生活の基礎知識を交えながら読んでいきます。清少納言が残した、魅力溢れる文学作品『枕草子』をご一緒に味わいましょう。学生時代とは異なる、大人の感性で古典を読み直す楽しさを感じていただければと思います。 <2024年10月期カリキュラム> 11月8日 第五九段 「川は」(川は) 第六〇段 「暁の別れ」(暁に帰らむ人は) 11月22日 第六四段 「草の花はススキが一番」(草の花は) 12月13日 第七二段 「めったにないもの」(ありがたきもの) 第九二段 「はらはらして困るもの」(かたはらいたきもの)
詳しく見る弥生時代の祭祀具である青銅のカネ・銅鐸は、朝鮮半島の銅鈴を祖形として誕生した。この銅鈴、実は九州や畿内地域でも製作されていたことが出土した鋳型から確認できる。今回は九州産銅鈴の製法がいち早く畿内に伝わり、銅鐸の発祥にいたった経緯について検証し、あわせて稲作文化の定着とからめて詳論する。銅鐸製作の故地・東奈良遺跡をはじめ、淀川筋の安満遺跡や高宮八丁遺跡など、摂津や北河内の拠点集落跡にも言及します。 @10月15日 「銅鐸の基礎知識と淀川筋の拠点集落―安満遺跡と東奈良遺跡−」 A11月19日 「銅鈴の展開と東奈良銅鐸の位置づけー銅鐸の誕生に迫るー」 B12月17日 「最新研究、石製外枠付土製鋳型による銅鈴と銅鐸の製作」
詳しく見る宮沢賢治は、自分の詩を「詩」ではなく「心象スケッチ」と呼びました。「心象」を「心に浮かび上がってくること」とし、それを素直に表現したものが「スケッチ」と考えれば、「素朴な抒情詩」を指すように思えますが、そうではありません。賢治にとって、自己の外部にあるものも「心象」だったからです。晩年に書かれた250篇を超える「文語詩」でも事情は同じです。「近代詩」の枠に収まらない賢治の詩を読み解き、その特異な人間観・世界観に迫ります。 @10月10日(木) 「心象スケッチ」とは何か ― 宮沢賢治の〈心象〉の特異性 A11月14日(木) 宮沢賢治における〈芸術と実行〉 ― 「春と修羅」第2集、第3集をめぐって B12月12日(木) なぜ、「文語詩」を書いたのか ― 賢治にとって〈表現〉とは何か?
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